Stitch by Stich 針と糸で描くわたし@東京都庭園美術館

全体的に、よい展覧会だったと思いました。
「縫う」という行為には「痕跡を残す」ということと、「繋ぎ合わせる」ということの二つの要素が複合していると以前から思っていたのですが、その点を両方ともきちんと見せている点が面白かったです。そして、今回の展覧会は東京都庭園美術館という空間を各アーティストに与えてインスタレーションを行わせることで、「場所の文脈」をきちんと織り込んだ作品になっていたというのも良い点でした。各アーティストそれぞれには色々思うところがあるのですが、それは以下にまとめました。

手塚愛子

これはもう……「身体」の表象に他ならないなぁ、と思いました。
《落ちる絵》は、エントランスから見た角度では、布が少し透けてしまう(それでいて向こうの景色は十分には見えない程度の薄さ!)ので、エントランスから見ている面が表か裏かは一瞬で決定不能です。しかし、布の「向こう側」に回った瞬間に、血管を思わせるような糸の束が布から伸びて一点に集積して、それらが床に楕円形の模様を描いている空間が現出しているというギャップが強烈でした。糸が床に描いている楕円形の模様は「血だまり」を想起させますし、糸の色のセレクトからいっても、それを意図しているのは恐らく間違いないでしょう。人間の身体も、《落ちる絵》の空間設定のように、表面と裏面(あるいは外部と内部)の境界をアプリオリには決められませんし、皮膚の「内部」には無数の血管が走って、その血管は心臓に集結していきます。
《泉(発生について)》は、庭園美術館に元々あった室内噴水の「香水塔」を利用したインスタレーションです。泉に沿ってモチーフを配置しているのはタイトルからも伺えるように、「生命の誕生」のメタファーでしょうし、裏側に出た糸が布に透けるさまも皮膚に浮き出た血管(静脈)を連想させる仕上がりになっています。

村山留里子「奇麗の塊」

こちらは「痕跡を残す」ことに重きを置いている作品群です。
ベルベットのマントから垣間見る可憐なモチーフ群は手塚愛子の作品の持つ問題系(内面と外面)を継承しつつも、漆で作られた手の表面やトルソーに人造パールやきらびやかなビーズで刻まれた痕跡としての「ステッチ」が、この展覧会の最後を飾る清川あさみの作品群の内包する問題系(後述します)を暗示している点が興味深いです。

伊藤存

こちらも「痕跡を残す」作品群でしょう。
しかし、「気配」を表現する作品群なのに、ステッチの「裏面」を黒い布で目隠しをすることによって、作者自身が「表/裏」を腑分けしている点が少し気になりました。

奥村綱雄《夜警の刺繍「刺繍作品・ブックカバー(文庫サイズ)」》

ひたすら布の目にそって細かく「時間の痕跡」としての刺繍を残していった作品です。
作業風景(実際に夜警の仕事をしながら刺繍をしている)の写真、制作時に実際に着用していた制服・使用していた道具類も同時に展示されていたのですが、それらにも目を通すことで、「作品」として仕上がった「ブックカバー」がある種の「証人」として立ち現れてくる気がしました。「作品」そのものも、かけられた「時間の痕跡」を示すかのように、手垢がついてほんのり茶色くなっている点も、手触りとして「時間」を伝えるものになっています。

nui project(大島智美/吉本篤史)

"nui project"とは、しょうぶ学園*1で行われているプロジェクトの一つです。
大島さんは「形」にこだわり、吉本さんは「玉止め」にこだわり(現在は身の回りの繊維をほぐして引き出すことにこだわりを持っているようです)ながら、「作る過程」そのものを痕跡として布に残しています。様々な解釈を許容しながらも、布や糸・ビーズの織り成す関係性は観客のわたしたちにとっても快いものとして存在していると感じました。ただただ魅せられていました。
特に、吉本篤史さんの玉止めを縫いとめた作品群のもつ襞が織り成す陰影が、私は好きです。

ちなみに、来年の1月に京都でnui projectのYシャツ展・即売会を行うようですね*2。京都在住で興味のある方は行かれると良いと思います!私も京都に縁があれば是非行きたいところです。

秋山さやか

自らの歩いたルートを、さまざまな素材(糸・リボン・ひも・ビーズ・ボタン・お菓子の袋の切れ端・レシートなど)を用いて布に描いた地図の上に縫いこむ、という手法をとる彼女の作品群は、文字通り彼女の「痕跡」を縫いとめるものです。この展示会のための新作を作るにあたって、彼女は白金高輪のウィークリーマンションを借りて、実際に近辺を歩いてその痕跡を縫いとめたとのことです。縫いとめた痕跡は、それぞれの材料が持つノスタルジーもあわせて、一種のチープなかわいらしさ(キッチュとでも言えますか?)を表出していました。
地図の上に縫いこむ材料は、現地で手に入れた身の回りのものを材料に用いることもあるので、上海を歩いた時の作品である「あるく ― 私の生活基本形 上海 2005年5月12日〜24日」からは、実際に中華街でかぐことの出来る、独特の香りが発せられていたのが印象的でした。
また、彼女の実際の作業風景がインスタレーションとして展示されていたのも興味深かったです。

竹村京

他のアーティストの作品が「痕跡を残す」ことを強調している中にあって、彼の作品はステッチの「繋ぎ合わせる」面にスポットを当てています。割れたガラスや陶磁器、壊れてしまったランプなどを、オーガンジーで包んで縫う「修復された」シリーズがその最たるものです。縫われる部分は、それらのものが「壊れてしまった」部分です。ガラスや陶磁器のひび割れた部分に、オーガンジーの上から繋ぎ合わせるようにステッチが施されているこの作品群は、展示されている各作品の中で一番「慈しみ」がにじみ出ている作品だと思いました。
また、写真やドローイングにオーガンジーを重ねたり、布の下から透けてみえるモチーフにそって、白く繊細な絹糸で刺繍が施されている平面作品群も、彼の持っている記憶を針と糸で「繋ぎ合わせる」という意味において、一貫しているように感じられました。

清川あさみ

この展示会のラストを飾る作品群です。造花にビーズ刺繍を施す《Dream Time》、女性の裸体の写真に執拗なまでにビーズ刺繍を施す《Complex》は、それらが孕む問題を含めて、最後を飾るにふさわしい作品だったと感じています。
美的水準は確かにとても高いのですが、私自身はキャプションで書かれているような「暴力性」というものは本人が自覚していないであろうと思われる、かなり根深い次元から立ち現れているものだととらえています。
さきほど、「女性の裸体の写真に執拗なまでにビーズ刺繍を施す」という表現を使いましたが、これが彼女の作品が原理的に「ファロセントリスム男根主義)」であるという批判を避けることができない最大の理由だと思います。ビーズ刺繍を施す針(=ファルス)は、写真に穴をあけて、写真に写された「裸体=白紙」の女性に「痕跡」を「書き込む」がゆえに、不可避的に「ファロセントリック」な比喩の構図が立ち現れてくるのです。それを単に女性の「コンプレックス」の問題に回収したうえで、彼女の刺繍を「暴力的」と評するのは、内在するファロセントリックな構図を隠蔽する効果しかないと私は考えるのです。
問題を複雑にするのは、この作品を作ったのが他ならぬ女性であるという点です。彼女自身がこの問題をどう捉えているのかは定かではないのですが、経歴から推察するに*3、意識に上らせたこともないのではないかという懸念が拭えません。そして、例え彼女がそれを意識していたとしても、その暴力の表出のしかたが「露悪的である」という印象を消すことはやはりできないのです。
彼女の作品の持つ「奇麗さ」だけを享受するのではなくて、その「暴力性」の正体を批判的に検討する鑑賞のされ方が望まれるように感じました。