全き「他者」の物語――『地球少女アルジュナ』の「語り」の構造

はじめに

作品の概要

 この作品は2001年初頭にテレビ東京系で放映されました。その半年後にディレクターズカット版として、地上波で未放映のエピソードを追加してDVD・VHSが発売され*1、さらに、同年の文化庁メディア芸術祭においては、デジタルアート[ノンインタラクティブ] 部門の審査委員会推薦作品としてノミネートされています*2。また、さっぽろ映画祭や一部の環境団体などでの上映も行われていました。

この論の位置付け

 放映から10年弱が過ぎている今、敢えて『アルジュナ』について書く必然性を感じない方もいらっしゃることでしょう。しかし、インターネット上で散見される感想には、その映像美のみを擁護するもの*3と、テーマ(とくに環境問題)への好悪が作品の評価に直結しているものが殆どであり*4、「映像表現」と「テーマ=物語内容」の関係性を可能な限り多角的に検討した上での言説はみられないというのが現状です。しかし『アルジュナ』が提示しているテーマや、その物語り方は現在においても検討する意味が十分にあると思われます。本論では、『アルジュナ』という作品がどのようにして作品として独特の存在感を獲得したのかという過程を可能な限り記述することを目指しています。

物語内容の構造――『バガヴァッド・ギーター』が導く「深部」

 『アルジュナ』には二つの大まかなテーマが指摘できます。「環境問題」と「コミュニケーションの問題」です。しかし、これらは残念ながら表層のレイヤーにあるテーマであるといわざるを得ません。これら二つに流れる通奏低音である『バガヴァッド・ギーター』を無視して『アルジュナ』の物語構造を分析することは不可能に等しいといえます。
 まず、ここでは『バガヴァッド・ギーター』から引用された要素がふんだんに『アルジュナ』の作品中にちりばめられていることに注目します。そもそも、主人公の名前(有吉樹奈(ありよし・じゅな))からして『バガヴァッド・ギーター』の主人公であるアルジュナの名をもじったものです。そして、樹奈が使用する武器はガンディーバという名の弓ですが、これも武人であるアルジュナシヴァ神から与えられた弓の名でもあります。また、一度命を落とした樹奈に再び命を与え、「時の化身」としての任務に就かせ、樹奈の「時の化身」としての覚醒へ導こうとするクリスの名も、アルジュナのよき友人であると同時にヒンドゥー教における最高神の化身であるクリシュナからとられています。
 また、『アルジュナ』における価値判断の体系は、この『バガヴァッド・ギーター』において提示されるものをかなり継承しています。『アルジュナ』において人間の生活を脅かす存在である「ラージャ」をむやみに排除してはいけない、とクリスが樹奈に繰り返し伝えるのは、「ラージャ*5」は地球という全体存在があるべき本来のバランスを崩し、攻撃性を強めた部分(=ラジャス、激質)が具現化したものとして捉えるべきであるからです*6。つまり、ラージャを破壊することは地球を、ひいては地球と繋がった存在でもある自らやその家族らを破壊することであり、最終的に自らの首を絞める結果にしかならないことをクリスは知っていたのです。*7
 そして、『バガヴァッド・ギーター』の基本的な物語構造は、親族・友人・師匠たちと戦わなければならない現実に直面し、戦意を喪失したアルジュナに向かって、クリシュナが教えを説きながら彼を鼓舞するというものです。このときクリシュナは、言葉を多く用いてアルジュナに語りかけます。クリシュナはアルジュナの理解が不十分だとさとるや、自らの表現をアルジュナの理解度に合わせて、敢えて本来の教えとは異なった用法で言葉を用いる*8ことさえあります。
 これに対して、『アルジュナ』におけるクリスは物語の冒頭から「(音声による)発話」そのものを奪われた存在であり、彼の「発話」はテレパシーを通して、特殊能力を持つ者たち(樹奈・シンディ)にのみ届けられるものです。加えて、彼の発言は樹奈にとって常に「謎めいて」います。クリスは樹奈の理解度に合わせて言葉を選んで説明することはしませんし、樹奈の(現代の女子高校生としては)当然の反応に対しても、非常に「そっけない」態度をとります。さらに、最終話において樹奈がクリスの言わんとしていたこと*9を「神秘的」に理解し*10、自らを「ラージャ」に合一させ、時の化身としての悟りを得た時、樹奈もまた「(音声による)発話」を奪われ、その代わりにクリスが声を取り戻します。*11
 この「導くもの-導かれるもの」の関係性の差異が、『アルジュナ』の物語り方を考える大きなヒントになります。クリスはクリシュナと違って「言葉」による伝達を殆ど重視していませんし、『アルジュナ』の作品世界においては、以上の証拠から「時の化身としての覚醒=発話機能の喪失」という図式がほぼ確実なものとして存在しています。「時の化身」としての樹奈やクリスの経験は「発話=表象」として伝達されえない、という仮説がここで成立するでしょう。

映像表現の構造――マチエールによる「描き分け」

 『アルジュナ』における映像表現のマチエールを大まかに分類すると、以下のようになります。

(1)私たちの世界=精細な背景描写
(2)その中の可能な私たち=構図(人物配置)の妙
(3)外界=水彩的な風景観に「キャラクタとして」描写される動植物
(4)開示される別様の可能な私(神秘体験)=CGエフェクト/オブジェクト、フラッシュバック、エコーのかかった音声
(橡の花氏による分類*12をもとに、一部筆者による修正を加えてあります)

 (1)は、作品をご覧になった方には改めて説明の必要がないと思われます。「リアルな」筆致で、相当の人的コストをかけて描かれた緻密な背景描写は、樹奈をはじめとする登場人物たちが生活する世界の全体を規定しています。
 (2)は、(1)を背景とした日常生活――それは、観客である私たちも良く知っているはずの日常です――の中で、様々な機微をみせる登場人物たちのレイヤーを指しています。そして、このレイヤーにおいては、「映像表現」は「物語内容」の表象として正しく機能しています。例えば、第1話の冒頭で、ふと時夫が樹奈に魅せられ、(おそらくキスしようとして)近づいていこうとした時に間髪をいれずにそれを遮り、時夫をけん制するようにして樹奈によってふるわれた弓、更に一旦時夫から離れて、手に持った弓を空に向かって思い切り振り上げる樹奈、というシークエンスは、二人の位置関係を通して、彼らのぎこちなさの残る恋愛関係を表象しています。また、第3話において、時夫が樹奈の母親に樹奈の現況を伝えようと訪問するシークエンスにおいては、二人の人物のいるショットと、樹奈の母親によってフォークで崩され、ただぐちゃぐちゃになっていくだけのケーキのクロースアップショットとが交互に現れます。加えて樹奈の母親の横顔のショット・バストアップショットでは、時夫がいるはずの角度に視線が向いておらず、手元の崩れたケーキや彼女の右方の空間にしか向けられていません。このことから、樹奈の母親が時夫の言い分を全く信じる気がなく、それ以上に彼女自身が他にも直面している様々な現実(特に夫との離婚)から逃避しようとしているということまで類推することが可能になります。
 (3)は、(2)のレイヤーでは樹奈たちには関知できなかったレベルの自然物/風景を表象しています。彼女たちは神戸における日常生活では動植物に対してさして関心を向けていません。(3)のような映像表現が出現する以前に、時折樹奈が動植物(例えばカモメ)に関心を向けようとも、「私たちには関係がない」外部の世界のことなので、さほど切実なまなざしを投げかけていません。「ただ見ている」だけだとも言えます。ゆえに、第1話において樹奈と時夫が見つめているカモメは「キャラクタとして」描写されない(=3Dモデルとして描写されている)のです。樹奈たちが彼女たちにとっての「外界」であるところの「自然物/風景」に対してまなざしを投げかけ、対象化したとき(例えば、第3話で登場する汚染された水によって衰弱し溺れた鳥のカットは3Dモデルではなく、樹奈たちと同じ肌理で「キャラクタとして」表現されています)に初めて、(3)のマチエールが現れるのです。
 (4)は、樹奈の神秘体験の表象レイヤーです。樹奈の内面での神秘体験を描写するショットにおいてはグロテスクさ、あるいは美的要素を強調したカットを多用する一方で、樹奈にとっての外界で起きている神秘体験を描写するショットにおいてはセルアニメーション的なマチエールの上に、CGによるオブジェクトまたはエフェクトを重ね合わせています。
 例えば、第5話で樹奈がハンバーガーを一口かじった時に経験した「神秘体験」としてのビジョンは、グロテスクさを強調したハンバーガーが作られる過程(牛の口元、ミンチとして搾り出される肉の様子など)や、極限まで歪められたハンバーガーの3Dモデルのカットなどが繋がることで構成されています。更に、樹奈の神秘体験と平行して展開される時夫とさゆりの会話が樹奈の主観ショットにおいてエコーで流れていることにも注目できると思います。神秘体験の只中の彼女にとっては逆に、現実の会話はまるで「神秘体験」であるかのように経験されている(この点については後述します)からです。第6話における桜井先生によるフェルマーの最終定理の説明、さらに「数学の存在意義」について熱弁をふるうのに平行して展開される、美的要素を強調した数学的な映像も、樹奈が知覚していたとすれば、一種の神秘体験として分類可能でしょう*13。また、第7話「見えない言葉」では、話された言葉や思念をそのまま文字通りに「表現」して、時夫の発言が樹奈を「文字通り」縛り付けて身動きを取れなくさせています。そして、第10話「ゆらぐ遺伝子」では、時夫とその父の口論の際、感情に合わせて色を変えた「オーラ」が言葉をかけた相手に飛んでいくという表現が用いられています。
 例外として挙げられるのは、クリスがテレパシーを使って語りかける声や、第3話において樹奈が汚染された水を飲もうとした時に彼女にささやく「もう一人の樹奈」(これはセルアニメタッチで描かれています)の声にエコーがかかっていることですが、テレパシーを受け取る行為自体が神秘体験であるというのは明らかなので、「エコーのかかった音声」も(4)のレイヤーに分類できます。
 そして、映像表現について批判が加えられる場合、ほとんどは(4)のレイヤーに属するものに対して行われています。しかし、(4)の部分が『アルジュナ』においてはかなり重要な意味を持つのです。

脱構築の瞬間――「映像表現」と「物語内容」の境界線のダイナミズム

 確かに(4)の表現は一見するとあまりにも直接的に「表層のテーマ」と結びついているので、「電波っぽい、稚拙な表現」として片付けられてしまいがちです。しかし、『アルジュナ』という作品には(2)のようなマチエールも(4)の合間に確実に存在しており*14、単に稚拙な表現欲求から(4)のようなマチエールが選択されたと考えることは困難です。そして、「神秘体験」というものは得てして主観的なものであり、「『客観的な』言葉」による語りが困難です。その神秘体験のレイヤーを「『不自然(かつ不器用)な』表現」であるCGや、フラッシュする、グロテスクでシュールな趣を持つカットを多用して物語るというのはそんなに不自然な話ではないともいえます。
 更に、(4)のような、ある種「不器用」な表現はいずれも物語の主だった(しかし表層的な)テーマに直接関わるエピソードに用いられている上に、その場で言明したいと思われる、やや抽象的な内容を「文字通り」そのまま映像に起こしています。つまり、物語内容と映像表現が分かちがたく結びついていて、分節化が不可能な状態になっています。それゆえ、「映像表現」と「物語内容」という二項対立を脱構築する契機にもなりえるのです。
 そして、従来自明と思われていたこの二項対立を揺るがす、(4)に分類される表現こそが、観客にとって自明であった「はずの」映像の表象作用そのものを拒否しているため、観客はこれらの表現によって自らの前提が崩され、そのことに対して過剰反応せざるを得なくなります。(4)のような表現は観客にとっては(レヴィナス的な意味における)全くの「他者」になり、自らの理解の範疇で意味をとらえることが困難になるのです。
 また、先述したように、物語の最後にラージャと融合した樹奈は発話を奪われ、「(客観的に)言葉で物語る」こと=表象が不可能になります。つまり、ラストシーンの段階では、物語構造のレベルにおいても樹奈が「客観的な表象作用」を拒否する存在になり、そして、樹奈が「(言葉にならない『言葉で』)語ること」を理解する存在になった時夫も一緒に「客観的表象作用」の圏域から脱出してしまったことが示されます。ここにおいても、「物語内容の構造」と「映像表現の構造」が内包する真理内実が同一化しているのです。

 『アルジュナ』においては「今、ここにある映像」を主観的に(あるいは神秘体験として)経験することこそが最も重要であり*15藤津亮太氏が言及するような「作品のトーン*16」というものも「今、ここにある映像」からしか立ち上がってこないのです。
 それゆえに、「映像は綺麗だけど、テーマが説教臭くていまいち」という素朴な部分肯定の言説は成立しえないとも言えるのです。「物語内容」と「映像表現」の境界線が作品中で絶えず揺さぶられ、最後にはごく自明のことのように互いが融合していく、そのダイナミズムこそが『アルジュナ』の重要な存在条件であり、これを否定することはこの作品そのものの全体否定になります。つまり、メディア芸術祭における評価も片手落ちであると言わざるを得ません。自分自身が理解しやすいような枠組みに矮小化してしまうのではなく、「他者」を「他者」として、その摩擦もまるごと経験し、受容しようとする態度こそが『アルジュナ』における最大のテーマであり、作品から私たち視聴者に要求されている態度であると考えられるからです。

おわりに――なぜ『アルジュナ』なのか?

 単純に、私にとって「アニメを主体的に視聴する経験」を再び実感として思い出させてくれた作品であるからです。(平たく言うと、『アルジュナ』でアニオタ生活に戻ってきたんです、私は!)『アルジュナ』が毀誉褒貶の激しい作品であることは事実ですが、少なくとも私にとっては相当な存在感を持って現れたので、「なぜそんなに面白かったのか?」という部分について、自分なりの考え方を書き記したかったというのがこの論を書いた大きな理由です。
 書き始めた当初はただただ「(思考の軌跡)書き記したい」という欲求のみで、加えて、もう少しアジテーション、「啓蒙」色の強い文章だったので、文章がうまくまとまらないことに悔しさも感じました。しかし、色々なものを吸収するにつれて、案外すんなりとまとめられるようになったことに正直驚きました。アンテナを張ると情報やアイディアはちゃんと集まるのですね。その過程で、過剰にアジテーションする気が失せてきたので、最終的に上記のようなスタイルになりました。
 最後に、この文章を最終的にまとめるにあたって大きな啓示を与えてくださった橡の花氏*17に感謝の意を述べたいと思います。ありがとうございました。

*1:この論では、話数表記はディレクターズカット版に準拠しています。

*2:ソースはhttp://plaza.bunka.go.jp/festival/2001/recommend/です。『地球少女アルジュナ(以下、作品名としては『アルジュナ』と二重鍵括弧書きで、この作品の下敷きとなっている古典作品の『バガヴァッド・ギーター』の登場人物としてはアルジュナと括弧なしで表記します)』がもともとストーリーを持ったアニメーション作品として制作されており、メディア芸術祭には当時から「アニメーション部門」が独立して存在しているのに、「デジタルアート部門」で名前を挙げられたというのは、どの点でこの作品が評価されたかを示しているように思います。

*3:文化庁メディア芸術祭でのノミネートのされ方も、審査委員会がこの立場をとっているためと推察されます。

*4:この状況は、Amazonのカスタマーレビューでも垣間見ることが出来ます。

*5:サンスクリット語では「王」という意味ですが、以下の文では「ラジャス=激質」とかけていると仮定しています。

*6:事実、最終話において「ラージャ」は本質的には地球と敵対しておらず、地球の循環の一部を担ってさえいたことが明かされます。

*7:しかし、ヒンドゥー教の思想を知らないはずの樹奈が、これらの図式を理解するのは相当困難だと考えられます。

*8:バガヴァッド・ギーター (岩波文庫)』の第五章・第六章の「行為の放擲(サンニヤーサ)」についての記述を参照してください。

*9:この内容は『バガヴァッド・ギーター』が示そうとしている教えとそっくりそのままです。

*10:樹奈自身の口からは、理解の「結果」は伝えられても、そこに辿り着くまでの過程は一切説明されません。それゆえ、シンディがあそこまで動揺するのです。

*11:それでもなお、クリスのテレパシーを全く理解できなかった時夫が樹奈の意図は汲めたというのが印象的です。

*12:http://twitter.com/totinohana/status/3145251284http://twitter.com/totinohana/status/3145665735

*13:もっとも、この時の映像を樹奈が知覚できていたかどうかはカットの繋がり方や樹奈の発言からはわかりません。

*14:そして(2)のマチエールは、「リアル志向」のアニメーション作品においては最高峰のレベルでの「自然さ」であるといえます。

*15:この点に関しては作中でも「今」というキーワードや、『客観的な表象作用を拒否する指導者』としてのクリスの存在によって、繰り返し直接的あるいは間接的に言及されています。

*16:藤津亮太の「只今徐行運転中」:各種原稿とWEB連載と『アルジュナ』 - livedoor Blog(ブログ)の記事において使用されています。藤津氏自身はそれが何であるか、という点にまでは言及していないのですが、この論の要旨について的確に言い当てています。

*17:http://twitter.com/totinohana/